堀江敏幸『未見坂』

未見坂

未見坂

 普段生活する中で、あって当然だと思っていたものがある日なくなってしまい、その大切さに気づかされることがある。いかにそのものによって支えられてきたか、また、その空白を埋めるにはどうすればよいかなど、様々な心の動きが生まれてくる。本書はそういった「空白」を受け止めて生きる人々の物語である。
 舞台は日本のどこにでもありそうな一地方都市。静かに淡々と物語られる九篇のすべてにおいて、死別や一時的な不在にかかわらず、なんらかの別離の空白が根底にある。家族、親戚、親しい人々……そんな誰かの存在のあとに生じた空白は、終わってしまったものとして忘却されるのではなく、より一層生活の中に生々しく息づいている。そこに火のような激情はもはやない。なぜならば人々は空白を抱えながらも日々を生きてゆくしかないからだ。ただ諦念にも似たあたたかな寂寞がただよっている。
 空白を抱えた人々の生活がどのようなものか、集中の『苦い手』を例に見てみる。なにかにつけて身のまわりの品を周囲の人にあげてしまうのが癖の秋川さんが、部下の肥田さんに電子レンジを譲る、それだけの話だ。だが秋川さんの奇癖が娘を失った反動からきていること、電子レンジを譲られた肥田さんも父を失って母と二人で暮らしていることがわかると、空白を埋める行為が別の空白を埋める構造になっていると気づかされる。冒頭、狭い庭に車を入れる難しさや車から運び出した電子レンジを家庭のどこに置くかというそれぞれの空白を埋める困難さとともに、電子レンジに重なる形で「父の空白」が示される。

 しばらくして母親が探しだしてきた雑巾を下に挟み込んで、肥田さんは思わぬ来客を台所までそろそろと押していった。さっきまで重い手応えのあったものが、外見を裏切るなめらかさで前方に移動していく。その感触が、ぐいと迫り出してきたステンレスのストレッチャーに導かれて父親の棺を霊柩車に滑り込ませたときのことをふいに思い出させた。(『苦い手』)

 こうして人やものには多くの意味が重ねられ、人々の生活が織布のように形作られている。その布に開いた穴が「空白」といってもいいかもしれない。
 さらにもうひとつの軸の存在も見逃せない。それは子供によって物語に持ちこまれた過去から未来へと続く軸だ。

最初はお母さんに連れられてきて神妙な顔で補助椅子に座っていた子どもたちが、やがてひとりであらわれるようになり、いつのまにか髪型に注文をつけはじめる。そして、ある日とつぜん、彼らが鏡のなかで成長していることに気づかされるのだ。(『方向指示』)

 子供の存在があることによって、空白を埋める行為がただの傷の舐めあいに堕していない。それは単純な代替行為ではなく、過去から未来へと続く生活の中でどうしようもなく得られた「営み」なのだ。人の死は決して避けることができない。そしてその空白も。本書において子供の両親の危機がほのめかされることが多いのは、誰もが引き受ける空白が、きたるべき未来の別離の予兆としてあらわれてきたものだろう。空白を抱える人々の生活は何層にも重ねられ、時間的な奥深さを持った豊かな世界を作り出している。