3月第2週

言語表現法講義 (岩波テキストブックス)

言語表現法講義 (岩波テキストブックス)

「文章を書くというのはどういう経験か」、平たく言えばどのような心構えで書きそして考えるかについての本です。生半可な態度で臨めない、真剣に対峙せざるを得なくなる講義録で、たとえば最終回、それまでの講義のどれもが徹底的な省察から導きだされた手応えのしっかりしたものであるのに、「ワン・オブ・ゼムでしかない」と言い切り、一度すべてを忘れるように勧めます。このことからも著者の「書くこと」に対する誠実さ・真剣さの一端が窺えるのではないでしょうか。とてつもなく含蓄のある、文章を書く糧になるすばらしい講義でした。
 
九つの銅貨 (福音館文庫 物語)

九つの銅貨 (福音館文庫 物語)

みずみずしい描写をたどっていくと、霧の向こう、水面下、いたるところに人にあらざる存在が見えてきます。それが単に賑やかしや教訓を垂れるものでないことは、没落した家と見えない友達の関係を描いた「ルーシー」に顕著です。子どもにだけ姿を見せていたルーシーが死期の迫った老人の前にも現れ、老人は「わたしらがみんな同じ道を帰っていくんだってだけのことなのさ」と来た道を逆向きに帰っていくのだということを悟ります。本書に登場する妖精に人を呼ぶものが多いのは「行きて帰りし物語」のガイドを担う存在であるからなのかもしれません。
 
お話を運んだ馬 (岩波少年文庫 (043))

お話を運んだ馬 (岩波少年文庫 (043))

すばらしかった。特に物語を愛する人と馬の姿を描いた「お話の名手ナフタリと愛馬スウスの物語」は奇跡のように良い。折りに触れて何度でも読みます。
 
フィオリモンド姫の首かざり (岩波少年文庫 (2135))

フィオリモンド姫の首かざり (岩波少年文庫 (2135))

美しい外見の裏に性悪な心根を隠し持つフィオリモンド姫は、婚約者を魔法で宝石に変えて次々に首に飾っていく……。表題作と、自分の持つ竪琴こそがそれだと知らずに妻を探してさまよう楽師の「さすらいのアラスモン」、妖精に盗まれた姫のハートを取り返す「ジョアン姫のハート」など、外見と内面の齟齬を中心にした3篇と、民話風のシニカルな4篇。ロマンチックな内容を想像してたけど読後感はわりと苦かったです。
 
幼い子の文学 (中公新書 (563))

幼い子の文学 (中公新書 (563))

なぞなぞや童謡を含めた幼年文学に関する連続講話で、「物を語る」にふさわしい親しみある語り口には読んでいる自分までその場で聞いているような気分にさせられます。物語について昔話から学ぶところは多いとしながら「昔話ばかりを中心にして、それがいいと思い定めるんじゃなくて、それはたしかにいい、いちばんの基本になる、しかしわれわれが新しいものをつくっていく場合には、また新しいやり方を考えなくてはならない」と述べており、センチメンタリズムを排したのびのびと広がりのある物語(詩)を求めるスタンスには深く同意します。

「センチメンタリズムを排する」というありかたは、児童文学に特有のあの「残酷さ」の核をなすのではないかと思うのです。無駄なものの削ぎ落とされた昔話ではそれが際立ってきます。
 
魔術師のおい(ナルニア国ものがたり(6))

魔術師のおい(ナルニア国ものがたり(6))

ナルニア創世記。そして魔女(とおじ)にいかにして子どもたちが打ち勝ったか。ディゴリー少年の成長譚であるとともに未来のナルニアを知る読者からすれば様々な秘密が明かされる巻であり、とりわけ最終章の章題「この話は終わり、ほかの話がすべて始まる」は感慨深かったです。細かいところでは街灯と衣装だんすの来歴にまで説明が及ぶのにはニヤリとさせられたり。
 
さいごの戦い (ナルニア国ものがたり (7))

さいごの戦い (ナルニア国ものがたり (7))

最終巻ではもう呑気な遠足気分は感じられず、いつになくシリアスな展開を見せます。いよいよ物語はクライマックスへ。で、僕がナルニアに求めていたのは想像力の自由さといったようなもので、それはたしかに「内側は外側より大きい」という言葉に集約されているとは思いますが、このシリーズではどうしても「キリスト教者の」想像力という留意が付くんですよね。この巻で示された真のナルニアを見たいのにアレゴリーを見せられているというか、面白いのにいまひとつ納得できないのです。