6月第2週
流言の社会学―形式社会学からの接近 (青弓社ライブラリー)
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雑に読んでしまったので再読。以下メモ的に。モノ・ヒト・非ヒト・コトの分類その有機的な結びつき、解決・解釈流言、「信じさせる力」と「伝えさせる力」を強めようという傾向によって体系化・過激化・脱落が起きる、不安と飽き、都市は小規模の解釈流言に最もふさわしい環境である(人口密度、倦怠と嫌悪、多元化、権威の弱体化)、所与→所識→情報、所与を所識化するということは所与から時間性と空間性を剥ぎ取ることである(体験の経験化)、情報化はしばしば所識を組み替える、受信・発信リテラシー、悪意の拡散と善意の集約。
第十八話「ブックワームズ」は本読みとしてはなかなか耳の痛い話で、自分の経験を振り返って若干いたたまれない気持ちに。この経験というのも作品のテーマだよなーと思いつつ、最終話、シルキーの「憎しみを知っているから、それを解くことができるかもしれない」という言葉はとても胸に響いた。人間の心にしっかり向き合い肯定するという最後まで非常に「らしい」作品でした。名作だと思います。
基本的には赤坂憲雄の供犠論(『境界の発生』)に依りつつ事例を事細かに見ていく。人身御供があったかなかったかという歴史的観点からではなく、語りそのもの、その民俗的想像力とは何かということが問題にされている。自分の中でうまい具合に(後世の想像にせよ)発生から近代までのそれなりに説得力のあるラインが引けたのがよかった。ヨリマシ的存在の巫女→神の饗応役→神の食べ物→人間以外の供犠。この流れに肉食・殺生不浄観と宮座による儀礼の独占が絡んで制度化されていく。
制度化の過程で流れを逆に辿る形で人身御供譚が案出されたのだとも言える。そして儀礼の制度化によって暴力性が稀薄になっていく中で、喰う/喰われることで神と一体化する身体感覚を呼び起こす物語が必要とされたのではないかと著者は説く。「人身御供譚とは、暴力性をできるだけ排除することで成り立ってきた日本の農耕社会で、稀薄化した生の実感を人々の身体の中に呼び覚ますものだったと考えたのである」
疲れたのでひさしぶりにぱらぱらと。庭はもとより象徴的な空間であるが、屋内に引き込まれ四方を囲まれた坪庭ともなれば、象徴性はより一層際立ってくる。機能的には通風・採光。象徴的には花鳥風月の舞台、神仏の遊ぶ桃源郷、禅の境地、京都盆地、御所。坪庭が部屋のひとつになっているような節もある。住居に異空間を取り入れるその工夫には頭が下がる。
家と村の社会学 (SEKAISHISO SEMINAR)
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屋根裏に誰かいるんですよ。―都市伝説の精神病理
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したがって「秘密組織に狙われている」などの妄想は誰の心にも芽生える可能性がある。極度に物語化された妄想は人々の心をくすぐり、都市伝説となって共有される。私見だが、物語化されずとも「カラスが鳴けば人が死ぬ」のように俗信の形で広がることもあるだろう。また、このプロセスが激越に起これば流言になり、パニックや排除にもつながってくる(たとえば関東大震災における汚染された井戸のデマ)。
ところで、妄想のリアリズムというものがある。自己批判性の欠如した必然の世界に生きる狂気の状態においては、妄想は安直で凡庸な物語に接近する。物語は誰もが使える安直なコミュニケーション・ツールとして、しかし誰の心にも切実に感知される。都市伝説はこの位相にある。巷間にある紋切り型の物語をこうした位相から見ることも可能かもしれない。
著者は狂気を以下のように定義する。「狂気とは孤独と論理の産物であると言い切ってみたい。狂気とは、決して支離滅裂でもなければ錯乱でもない。きわめて筋道だっているのである」。
我が家では屋根裏の納戸を物置として使っている。子どもの頃、僕はキョンシーに恐怖を抱いていたらしく、縁日かなにかで手に入れたキョンシーのお面をとても怖がっていた。見るに見かねた親がお面を納戸に仕舞ってからはもう怖がることもなくなったのだが、あの時の恐怖はどこかに封印されて、今でも屋根裏にはキョンシーがいるという感触がうっすらとある。大人になった今でも『呪怨』やダリオ・アルジェントが好きなのはそういった幼少の記憶につながっているのだろう。そんな奇妙な懐かしさを感じながら本書を楽しんだ。
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『家屋と妄想の精神病理』と改題増補された新版が出ているらしい。
新聞連載をまとめたエッセイ。学校の怪談や都市伝説といった現代の世間話と、「霊柩車を見たら親指を隠す」などその背後に独自の論理的な思考が垣間見える俗信を紹介していく。あくまでも紹介なのでそれほど珍奇さはないが、「学校では生命の誕生についてかなり詳しく教えるが、『死』については子どもたちの想像力に委ねられている」という指摘にははっとさせられる。妖怪を見るための「狐の窓」なんて俗信も面白い。指や手や道具で空間を仕切って境界とし、その隙間から覗けば異界が見える。
うわさが走る―情報伝播の社会心理 (セレクション社会心理学 (16))
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『詩学』で少しだけ読んで変な詩だなぁと思っていたのだけど、この詩集ではわりとあっさりした印象を受けた(収録作にもよるだろうが)。スタイルというかキャラを楽しみはしたもののそこに自閉されるとしばしば理解が及ばなくなる。タイトルの付け方などはその傾向が強い。もう一、二度味読する。
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再読。詩の向こうに様々な感情が見え隠れするがするりと逃げられてしまう。それは長く読めるということでもあるが。
さるは
逃げて行つたのか
それとも
追つて行つたのか
さつぱりわかりもせず
二、三日経つたが
いまだとんとわからず。