悪霊

 田舎で、妻と二人で宿を営んでいる。宿は古い寺を改築したもので、往時は立派なものであったのだろうが現在は客もほとんどおらず、どこか廃屋の雰囲気が漂いはじめている。
 ある日、傷だらけの修験僧が宿に着く。畳に布団を敷いて寝かせてやったが、傷のため弱りきってすぐにも死にそうに見える。手の施しようがなく枕元に座って見守っていると、僧も観念したのかきれぎれの声で、あとを頼む、などと言って目をつぶってしまう。それきり事切れた。
 妻は「妹さんがかわいそう」と言う。自分はなんのことかわからず、妹とは誰のことかと問うてみる。「妹さん、この人と一緒に来たじゃないですか…」。自分はそんな女は見ていない。僧は連れを持たないで一人でここに来たはずだ。「確かにいたのだけれど…」。二人ともふしぎな心持ちで顔を見合わせる。が、いつまでもそうしていても仕方ない。「お風呂の用意をしてきますね」。妻は立ち上がり背を向ける。その背中に、干からびて肌の真っ青な女が張りついている。眼窩に目玉はない。妻は気付いていない。
 大浴場は一面が青苔で覆われていて暗い。妻は洗剤をまいてブラシでごしごしと磨いていく。苔はこそげ落とされて、足元は泡で覆われる。その泡の中を、干からびた青い女がべちゃべちゃと転げまわっている。ここにきて妻もやっとその女に気付く。
 二人して慌てて宿の外に逃げ出す。あれは死んだ僧に憑いていた悪霊に違いない。このままでは宿が乗っ取られてしまう! しかし僧を殺した悪霊など手に負えるものではない。ただ二人で肩を落として、宿から聞こえる気味悪い水音に耳を傾けた。