「わたし、彼氏持ちだからね」
 香川さんは鍋つかみのように分厚い手袋を左手から外すと、おずおずとコップの隣に手を伏せて、こちらの様子を窺った。薬指には細身のシルバーリングが我関せずといった風に鈍く冷たい光を放ち、けれども存在をたしかに主張している。
 まったく予期せぬことだったので、僕は「ああ」とか「うん」とか気のない返事をしたんだと思う。香川さんのことを今までそういう目で見たことは断じてなかったし、彼女が僕を男女関係の枠内に置きつつあるのだとは露ほども考えなかった。でもこうしてあらためて関係性のラインをきっちりと目の前に引かれると、今まで男女を意識せずに付き合ってきたのが途端に不思議に思えてくる。二十歳そこそこの健康な男女としてはそっちのほうがむしろ不自然だったのだ。
 僕の戸惑いを見て取ったのか、香川さんは薬指から指輪を抜き取り、かたわらのトートバッグに投げ入れた。扱いのぞんざいさと今まで一度もその指輪をした姿を見たことがないことから考えて、べつに彼氏からプレゼントされたものではないのかもしれない。というか「彼氏」すらも僕を恋愛対象にはしないという宣言のための架空の存在なのでは──と思い至ったところでずいぶんと動揺している自分に気づいた。水面はまるで石を投げ入れたかのように激しく揺れている。
「わたしはBLTにするけど」香川さんがメニューをこちらによこす。店内のざわめきやBGMが急に存在感を増す。僕はメニューを開く。
 これから彼女とどう付き合えばいいんだろう。今までのようにはいかない。でも急に付き合いを減らしたりなんてしたらやっぱり「そういう目で見ていた」ことになってしまうだろうし、変に意識しすぎて関係をぎこちないものにはしたくなかった。彼女の牽制にどう応じればいい?
 メニューのシーザーサラダとサンドイッチの写真のあいだに視線を泳がせながら、どのようにしても揺れ動いてしまう水の広がりの中で、自分が溺れつつあるのを感じていた。