「それで」
 石の上で十年も過ごしたような苦悩を顔に浮かべて涼子は言った。
「わたしがいないあいだに一体何があったか聞かせてもらいましょうか」
 その向かいにはガラステーブルを挟んで青ジャージ姿の柚香が膝を抱えて座っており、すっかり意気消沈してしょげかえっている。こちらはクリスマス当日の朝に「うちにはサンタなんて来ません」とプレゼントを反故にされた子供といっても通じるほど悲痛な様子だ。
 荒廃著しい部屋でなかばベッドと同化していた柚香からべりべりと布団を剥ぎ取り、なんとか人間らしいシルエットに整えたまではいいが、頭がくらくらするほどの強烈な香水の匂いはそう簡単に消えるものではなく、消臭スプレーを何度も振りかけてようやく事なきを得たのだった。
 事情を聞こうにもあんな魔界にいてはいつ意識を失ってもおかしくないので──柚香本人はまったく平気らしかったが──こうして隣の涼子の部屋まで引きずってきたのだ。
「ねえ、怒らないから……」
「嘘つき」
 と言ったきり、柚香は膝に顔を伏せてしまう。
 こうなっては頑固な亀が甲羅の中に首を引っこめたようなものである。さてどうしたものか。
 涼子はやれやれと立ち上がり、キッチンでごそごそやって、両手にマグカップを持って戻ってきた。インスタントのキャラメルカプチーノ
 湯気の立つマグカップを自分と柚香の前に置く。
「ほら、冷めちゃうよ」
 柚香は恨めしそうにカップを見つめていたが、瞳は躊躇に揺らぎ、結局はそれに手を伸ばした。温かい甘みが口から喉、胸の奥にじんわりと広がり、意固地になっていた心を少しずつ解かしていく。
 こくりこくりと半分ほど飲み終えた頃にはずいぶんと気が楽になっていた。
「ゆっくりでいいから聞かせてよ」
「……うん」
 話すと涼子を怒らせてしまうのではないか、頼りになるルームメイトに嫌われてしまうのではないか、とかすかに逡巡の色を見せて、ようやく、
「はじめはね、涼ちゃんが何日か出かけるって聞いて、そんなになんとも思ってなかったんだよ」
「うん」
「涼ちゃんは勉強で行ってるんだし、少しくらいなら待てると思った。でも帰るのが遅れるって電話で聞いて、わたし一人っきりで部屋にいて、もしかしてもう涼ちゃんは帰ってこないんじゃないかって、取り残されてずっと一人でいるんじゃないかって」
「うん」
「そんなわけないのに、そう考えたらどんどん怖くなってきて……」
 聞きながら涼子は何日か前の電話の内容を思い出していた。たしかに柚香は「早く帰ってきて」と漏らしていた。あの時は忙しさにかまけてろくに耳を傾けてやれなかったけれど、よくよく考えれば柚香なりに涼子の立場を慮って寂しさをこらえた末に、それでもこらえきれなかった寂しさがこぼれ落ちて結晶した必死のメッセージだったのかもしれない。そのメッセージに気づいてやれなかったのは不覚だった。
「わたしがここにいないと涼ちゃんが帰ってきたときに誰もいないし、でも一人でいたくない」
「……」
「わたしは……どうすればよかったのかな」
 震える声で言うと、柚香はまた膝に顔を伏せた。
 一人でいると──
 一人でいるとどんなに些細なことでも大問題に発展してしまう。たとえそれが他人からすれば取るに足りないものであったとしても、夜中に時計の針の音に気づいて眠れなくなるように、普段ならそれがあることさえわからなかったものが突如存在感を増してくる。大きくなったそれは──寂しさは──簡単に人を蝕み、雪玉が転がるように不安を呼び寄せる。
 誰もが自分の中にある寂しさと折り合いをつけて生きている。しかしそれができずに寂しさをまともに受け止めてしまう人間もいるのだ。
 しばしの沈黙のあと、涼子はそっと腕を伸ばし、
「──ごめんね、気づいてあげられなくて」
 と柚香の頭を撫でてやる。
「うぐっ、ふええ」
「よしよし」
 よれよれになった柚香の頭を優しく撫でながら、
「今度から誰かに言付けて行くようにするから。あなたが一人で寂しい思いをしないように。柚香が寂しかったり悲しかったりすると、わたしも困るわ」
「うん──うん」
「でもね」
 思い出したようにぬるくなったカプチーノを一口啜る。
「それはそれとして、あなたの部屋はどうしてあんなに荒れてるの?」
 その言葉に柚香はびくっと体を震わせて顔を上げる。まるで隠していた答案を親に見つかって怯える子供のように。
「あ、あれは、えっと……」
「それとおとといから携帯が通じないけど。寂しいなら電話してくれればよかったのに」
「うう……」
 柚香は急にそわそわしだしたが、追及の手からは逃れられないと悟ったのか、おずおずとポケットから携帯電話を取り出した。二つ折りを開いても液晶は暗いままだ。
「携帯、壊れちゃった……」
 聞けば寂しさに押し潰されてただウサギのように震えていたばかりではなく、近所のコンビニで食料や飲料を大量に買いこんでアラブの石油貴族もかくやの自堕落な日々を送っていたらしい。その有頂天状態の最中、ふとした不注意から携帯電話をペプシに沈めてしまい、電話という命綱を失ってもう何もかもどうでもよくなって退廃生活に拍車がかかったところで、適当に放置していた弁当の空箱などがトロピカルな異臭を放ちはじめ……
「匂いを消そうとして香水を……」
 涙に濡れた顔でてへりと恥ずかしそうに笑った。
 涼子は一拍置いて、
「この──バカ娘っ!」
 ぎりぎりとつまみ上げられた柚香の頬が斜め上方向に伸びて面白い顔になる。
「いひゃいいひゃい!」
 指を離すとぱちんと元に戻る。
 どんな深刻な精神活動によって引き起こされたカオスかと思いきや、なんてことはない、ただ享楽に身を任せて酒池肉林の限りを尽くした結果だったとは。心配して損した。というか、たった一週間で部屋をエントロピーの上限に到達させたことを憂慮すべきではないだろうか?
「はー、無駄に疲れたわ」
 涼子は首を左右に振ってこきこきと肩を鳴らすとそのまま床に寝転がり、柚香も痛む頬をさすりつつ鼻をかんだりしている。
「……お腹空いた。外に食べに行こうか」
「中華がいいな」
「お黙りなさい」
 ぴしゃりと言い放ち、それからどちらともなくくすくすと笑いはじめる。
 一時間後、荒れ果てた柚香の部屋を掃除せねばならないことを思い出して二人は絶望するのだが、今はまだ完璧に意識の外へと追いやっていた。


続く(?)