かんかんかん、と小気味良い音をさせて階段を上っていったが、いざ部屋のドアを前にすると、なかなか開ける勇気が出なかった。なにせ本来なら三日で終わる予定のフィールドワークが、あれやこれやとこだわり続ける教授のおかげで一週間に延びてしまったのだ。自分が好きで選んだ道なのでそれ自体は気にならないにしても、寂しがりのルームメイトのことを考えるとちょっと気が重かった。
(柚香、怒ってるだろうな……)
 ふう、と溜息をついて、涼子は部屋に入る前に携帯電話をコールした。しばらく呼び出し音が鳴ったあと、お決まりの「電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため」云々のアナウンスが流れる。電話はもう二日前から通じない。
(まさか死んじゃいない……よね)
 最悪の事態が脳裏をかすめる。もし柚香が病気で身動き取れないまま衰弱していたら、もし部屋に押しかけた残忍な強盗に出くわしていたら、もしなにか恐ろしい事件が……よそう。今は謝って謝って謝り倒すことだけを考えよう。きっと言い訳なんかしたらますます怒らせてしまう。
 思い切って鍵穴にキーを挿す。しっかり鍵がかかっていることに若干安堵を覚えつつ、おそるおそる部屋の中にすべりこむ。玄関脇のキッチンはきれいに保たれてシンクが鈍く冷たい光を放っている。きれいに保たれている──というか使った形跡がまるでなかった。荷物をキッチンに置いて、誰もいないのかな、と片方だけ床に落ちていた靴下を拾い、「ゆずか」と丸っこい書体のプレートがかかったドアを叩いた。
「ただいま。柚香、生きてる?」
 返事はなかった。仕方なくドアを軽く開けて中を確認する。と──
(うっ……)
 筆舌につくしがたい光景が広がっていた。床は脱ぎ散らした衣服に覆われ、その上にペットボトルやコンビニ弁当の空箱、菓子の包み、くしゃくしゃになった雑誌、そしてなぜかゴムタイヤが三つ、あとはなんだかよくわからない不定形のゴミが現代芸術を思わせる完璧さで散乱している。そしてこの強烈に甘ったるい匂い……
(香水?)
 深海を進む潜水艦のように大急ぎで部屋を横断し、魔界と化した部屋を清冽な外気でもって祝福するがごとく窓をいっぱいに開ける。しかし瘴気が重すぎて部屋の中に腰を下ろしてしまっているらしく、座布団で扇いでやってようやく呼吸ができるレベルにまで落ち着いた。こんなところで人は生きていけない、ここで生きていけるのは地獄の悪魔、名を呼ぶのも憚られる忘れられし邪神……と魂が地球の重力に引かれはじめたところで、涼子はベッド(があった場所)でもこもこと蠢動する名状しがたい塊を発見した。これこそ悪魔である。
「涼ちゃん、帰ったの……」
 悪魔には似つかわしくないかわいらしい響きで、それでいてなにか凄みを感じさせる寝ぼけた声が涼子を呼んだ。その名状しがたいもこもこはトランスフォームを繰り返し、まず腕が、そして青いジャージを着た上半身がひょこりと姿を現した。


続く!