「だからさ、近づきすぎると何事もだめなのよ」と言って、彼女は運ばれてきた皿を受け取った。行儀よく八つ並んだ餃子からは香ばしい湯気が立つ。
「……ハリネズミのジレンマですか?」
「いやいや、そんな大げさなもんじゃなくて」
 恋する二匹のハリネズミが互いを求めて針で傷つけあうという有名な寓話は、どうやらお気に召さないらしい。それじゃあ何なんだと思いつつ、とりあえずは彼女が餃子を一気に二つ頬張って胃に送りこんでしまうまで待つ。
 彼女は同じ大学の一年先輩にあたり、規格外にエネルギッシュというかパワフルというか、「女らしさ」なんてものを今でも夢想する人々に一度引き合わせてみたい人物だ。学内では「暴れ馬」と称されて蛮勇をふるっていた。とある授業でたまたま席が隣り合ったときからの縁である。
 その彼女が卒業と同時に「強いやつに会いに行く」と言い残してアジアに旅立ってのちは平和な日々が続いていた。だが半年ほどで帰国し、さらなる暴虐の手始めとばかりに僕をこのラーメン屋に連れこんだのだ。前途有望な若者としてこのような邪知暴虐を避ける手段をぜひ学んでいきたい。
「あれよ、世界遺産ってあるじゃない、セカイイサン」と言いながら箸の先でお土産の木彫りの仏像の頭をこつこつと叩く。心なしか仏の顔も沈痛に見える。
「そりゃ歴史や自然は大変よろしいんだけど、がっかり遺産っていうの? 現地に行ってみたら全然大したことない、そういうのも中には存在するわけで、なんにでも適切な距離ってのがあると思うのね。バナナは茶色くなってから、がっかり遺産は遠くから眺めてこそ」
 バナナは関係ないような気がするが、まあ大意としては理解できる。世界遺産とまではいかないにしろ有名な観光地で、そこが有名だからこそ無駄に高まった期待を持って行ってみれば意外とつまらない、という経験は誰にでもあるだろう。
「はあ、深いですね」
「でしょー?」
 豚骨ラーメンのスープをぐびぐび飲み干して満足そうに頷いている。こんな光景を前にも見た。たしか相撲取りの優勝会見で。
「花は遠くから眺めてこそ美しい……わたしは自分探しの旅でそれを学びました。まさになるほど・ザ・ワールド!」
「大きい声出さないでください」
 花は遠くから……とはいえそれは花との距離を自分で調節できる場合で、今こうしているように巨大な食虫植物が襲い掛かってくることも時にはあるのではないか。往々にして人間は自らの人生を思い通りに進められないというのは歴史が証明しているところでもある。
「先輩を見てると適切な距離をとることの重要性がよくわかりますね」
「……なかなか言うじゃない」
 餃子の最後の一つを箸につまんで呵々と笑うとそれを口に放りこむ。と、急に何かに気づいたという風に笑みが消えて真剣な顔になる。
「言い忘れてた」
「はい?」
「財布持ってない」
「え……」
 絶句している後輩をよそ目に彼女は「農家の人ありがとう! ごちそうさま!」と勢いよく両手を合わせた。この場合の農家の人とはつまり、僕のことである。