10月第2週
鑑賞と作歌の方法を紹介し、さらに「素人の時代」と言われる現代の課題にも触れる。まず心の揺れを第一に置いて、それを伝えるために言葉の彫琢があるとする。心が揺れた出来事をそのまま歌にするのではなくて、「現実よりも真実を」つまり表現の上では嘘も必要だという。短歌に限らず当然といえば当然だが明言されると心強い。ただ、正岡子規から続く「心か言葉か」の問題になると、子規が切り捨てた言葉(技巧)の部分を見直してもいいのではないかと説いており、さすがに一筋縄ではいかないようだ。心を生かす言葉のありかたを模索すること。
「歌はやればやるほど下手になる」という、初期衝動が失われて技術が勝るほどにつまらなくなる現象は身にしみて感じられる。冷や汗が出た。
モディリアーニ (アート・ライブラリー)
posted with amazlet at 11.10.09
フーコーの思想はフーコーの個人史と密接な関わりがあるとのことで読んだ。エキセントリックな前半生、「闘士にしてコレージュ・ド・フランス教授」と呼ばれた激烈な後半生と、一歩引いたジャーナリスティックな筆致で全生涯をカバーしている。『監獄の誕生』などはフーコーの政治活動が背景にあると知っているとより鮮明に受け取れそうである。それにしても出てくる名前の多いこと、フランスの大学機構の奇々怪々なこと。フーコーのように個性の強い人間にはさぞ息苦しい環境だっただろう。
エクリチュールとは何か、バルトが夢見た零度とは何か。言語と文体と違って選択的に選べるのがエクリチュールというわけで、それは社会的な態度決定とでもいうべきものである。しかし選び取ったエクリチュールが純粋なのは一瞬だけで、その後は作者自身がエクリチュールからの影響を免れることができない。このエクリチュールの定義は後年のバルトにしても揺れ動いているようで、むしろそのことから何かが見えてきそうに思う。あとこの本についていえばマルクス主義に基づいてフランス文学史を読み解く性格が強い。すごくめんどくさい。