8月第4週

神事が芸能へ、あるいは神々が落魄して芸能の場に現れるというような民俗学の論理にはさして興味がないが、能と狂言の違いに関してはたいへんためになった。能はシテ一人主義であり、すべてを内面化した劇空間を現出せしめるものであるなら、狂言は対話劇で、主客がはっきりした現実の空間である。

同じことがらを当事者の立場でみるか、第三者の立場でみるかによって、能になったり狂言になったりするのである。

「梟山伏」に見られる徹底的なナンセンス、社会や常識をまったく相手にしない底抜けのナンセンスの恐ろしさについては覚えておきたい。
 

狂言・鬼山伏狂言・出家座頭狂言・集狂言を収める。山伏が登場する狂言泉鏡花の作品に使われていることもあって馴染みを感じた。また、「月見座頭」は座頭と男が打ち揃って月見をする狂言で、二人で楽しい一時を過ごした後、座頭の目が見えぬことを幸いに、男が別人のふりで座頭に喧嘩を仕掛ける。人情の脆さを見せられるような結末に慄然とした。
 広くカバーした入門書。写真が豊富で行き届いてる。いい本です。
 
十五少年漂流記の島―ニュージーランド紀行
塩野 米松
求龍堂
売り上げランキング: 1258255
ニュージーランドに関する本が図書館にこれくらいしかなかった。よくあるゆるふわエッセイ。一瞬で読める。
 

『青白い炎』第一篇(その5)

さらに、そこには音の壁がある。秋になり
無数のコオロギに築きあげられた夜の壁が。
立ち止まらずにはいられない! 丘の中腹で
わたしは足を止め、虫たちの熱狂にうっとりと耳を傾けた。
あれはサットン博士の家の灯り。あれは大熊座だ。
千年前、五分間は
四〇オンスの細かな砂に等しかった。
ああ、星々を見つめよ。果てしない昨日と
果てしない明日に目を向けよ。はるか頭上に
星々は巨大な翼のごとく迫り、やがておまえは死ぬのだ。
 
思うに、ありふれた俗物のほうがより幸福だろう。
彼が天の川を見るのは、ただ立小便をしているときだけなのだから。
昔も今も、わたしは大枝に鞭打たれたり
切り株につまずいたりと、危険を冒して歩いてきた。
わたしは喘息持ちで、びっこででぶっちょで
ボールを弾ませたことも、バットを振ったこともなかった。
 
わたしは影だった、窓ガラスに映じた見せかけの遠さに
殺された連雀の影だった。
わたしは頭脳と五感(そのうちのひとつはユニークな)を持ち合わせていたが
他の点ではからっきしだめだった。
夢の中では他の男の子たちと遊んだが
本当のところは友達を妬んでなどいなかったのだ――おそらく
濡れた砂の上にそっけなくも巧みに残された
連珠形の驚くべきもの
自転車のタイヤ跡を除いては。