5月第4週

「小説を書く」という行為を可能な限りマニュアル化してそこに回収され得ないものこそ<文学>ではないかと問う挑発的な試み。レッスンは大雑把に言えば「物語の構造を意識せよ」というもので、生徒による作例をまじえながらわかりやすく示してくれます。自分なんかはこういうの少し歪な形で認識していたので勉強になりました。
ちなみにカードを使ってのプロット作成は実際にタロットでやってみましたが、タロットだとそれぞれのカードが極度に象徴化されているためにかえってその象徴に縛られてしまいました。結局は慣れだと思いますが抽象的な単語のみのカードを用いるのが無難です。
 
送り雛は瑠璃色の

送り雛は瑠璃色の

ざっと一巡。復刊前に有志によるADV版をプレイしたときは気付かなかったのだけど、パラグラフを行き来したりパラメーターを管理するというのはずいぶん面倒だなぁ……。図書館で借りたので改悪版とはいえ買い直したい。
26日追記。野暮を承知で全パラグラフを読んでみた。制限を取り払えば分岐からじっくり探索して情報を把握できるし、むしろそのほうがばらばらに置かれた意味の総体としての作品を楽しめた。すべて読んた上でもまだ全体像が確定せず解釈にゆらぎが生まれるのがこの作品の奥深いところでしょう。
 
境界の発生 (講談社学術文庫)

境界の発生 (講談社学術文庫)

「わたしたちの文化や歴史の昏がりに埋もれた境界の風景を、発生的に掘り起こすこと」。内と外のあわいに現れる境界を、チマタ(交通の結節点)、琵琶法師、杖、人身御供、穢れなどの表象から読み解く。どの考察も非常に面白いのにさらなる論の深化を予告しながら次の論へと移っていくので一抹のもどかしさを感じた。<杖>の表象から導かれた<水の女>と、その次章の供犠論において現れる<巫女>はおそらくつながるのだろうけど。この辺はもっと詳細に見てみたい。
小松和彦のあとがきにある「『境界の発生』の物語を語れば語るほどに、『境界の消滅』の物語がその背後に忍び寄ってくる」という言葉にはちょっと目を開かされた。たしかに現代の「消滅」の物語は読み解かれねばならないし、『排除の現象学』はそうした意識の下で書かれていたのだと今更ながらに納得した。その点で僕自身の視野も修正すべきだろう。
 
幽明偶輪歌

幽明偶輪歌

「まあ夢だ、しかし 夢ならむしろ本物だし/夢でなければ何でもありはしない」。散文詩と行分けの詩の比率が逆転し、ユーモアもなんだか気を張らなくなったというか全体の印象がゆるゆるになった。こうなるともう一歩引いて楽しむというよりは一緒に巻きこまれる感じになってくるな。今回も「出先から家に帰れなくて呆然とする」という詩業や人生を象徴するようなモチーフはあって、それを詩集の最後に持ってくるあたり、やはり詩人も遠くに来てしまったことに呆然としているようで。
 
夢でない夢

夢でない夢

微妙。表題作は「一種の自動記述的方法」とは言うが後年の詩や童話とくらべるとあまりにとりとめがない。が、その後年の作品に通じる要素に注目すればなんとか読めるか。集中で好きなのは「猫殺し」(このタイトル、笑)、これは電車の中を押し寄せる水と不気味な猫のイメージがなかなか良い。後半の賢治風の習作は試行錯誤してるなぁという感じで。
 
胴乱詩篇

胴乱詩篇

おお、本の体裁が『欄外紀行』と同じだ。なんか意味があるのかな。中身のほうはある種の幽玄さは薄れたがユーモアが前に出てより混沌としてきた。バラエティ豊かで楽しい。

(これは何か?
 人の夢に似たかたちを
 かつて取っていたものの
 塊の
 なれの果て
 腐れたるトマト
 至るところ孔だらけの
 死せる太陽の迷宮)

 

広部英一詩集 (現代詩文庫)

広部英一詩集 (現代詩文庫)

夭折した母への思慕を基調として死者と生者の共生が描かれている。痛切で透明な詩ではあるが、個人的には冒頭の「餅」のような暗いものを期待していたので合わなかった。なんというかそのようなものを求めたことすら後ろめたく申し訳ない。
 
水族譚~動物童話集~ (fukkan.com)

水族譚~動物童話集~ (fukkan.com)

水辺の小動物がメインの童話集。前半を占める連作「海の夢 川の夢」が天沢作品らしく不穏なくせにあっさりしていて、これだけでも手元に置いておきたいと思わせる絶品だった(図書館で借りたのですが)。あとは高校二年のときに書いた(!)という宮沢賢治の影響が色濃い作品や、ファンタジーの多義性と悪意についての論考など。思いのほか自身の作品の核となる部分を開陳している。

多義性とは、その多「義」がすべて解読されることを必ずしも要求するわけではない。(…)しかしそれらの未解読の「義」は逆に「義」ならざるものの不可思議の層となって、理解しうる第一「義」の周囲に光芒をもたらす。この光芒は、幼少年時の感受性によっても確実にキャッチされる。これが真実のはじまりである。

私の思い致ったところでは、ファンタジーのあのぞくぞくするばかりの魅惑のはじまりはこの悪意の本格的な瀰漫によるのであって、正邪・善悪・生と死等の二元論のあつれきは、それ自体が本源的であるというよりも、<悪意>を本格的に瀰漫せしめるためのとりわけ有効・基本的な装置にほかならないのである。(…)悪意の登場に対して何らかの意味での幻想をもって対峙するほかない、というありかたにおいてファンタジーは進行するであろう。

多義性の中からとりわけ<悪意>を抽出するあたりがいかにも氏らしいですね。