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 これは僕の兄が実際に体験した話。
 兄は中学の陸上部に所属している長距離走の選手だ。タイムは結構いいほうで、地区の代表選手に選ばれたこともある。この中にももしかしたら知ってる人がいるかもしれない。
 兄は就寝前、時間と体力に余裕があると、よく自主トレでジョギングに出かける。
 コースは、家を出てしばらく行ったところにある神社の敷地を抜けて、商店街のほうへ。そこから中学前の坂を下り、近くの城址公園で息を整えたあと、海沿いから港を突っ切る格好でぐるっと大回りして帰宅する。大体四十分程度のコースだ。
 その日もいつものように軽くストレッチして家を出た。ちょうど出るときに廊下で会って一言二言話したのを覚えている。
 いつもと変わらないペース、いつもと同じ道。城址公園に着くまではなんのトラブルもなく順調だった。ただ、その公園でちょっとおかしなことが起きた。
 みんなも知っていると思うけど、あそこは城址に造られた公園で、石垣の一部が残されていたり、記念碑や簡単な資料館がある。でも城が建てられる前に何があったのかは意外と知られてない。知ってる? 実はあそこは大昔、古墳……つまり古代の墓地だったんだ。城があった部分は公園として整備されているんだけど、少し奥に入ると薄暗い森になっていて、細い道がいくつか通っている。
 東屋のベンチで休憩して、ふとその森のほうを見ると、今まで見過ごしてきた小道が急に気になってきた。その日は、なにか違って見えたんだって。
 それでそっちに行ってみることにした。
 まだ時間には余裕がある、迷いそうだったらすぐ戻ればいい。
 森といっても公園の周遊コースの一部に組みこまれているぐらいで、足元に小さな電灯が灯っていて、夜の闇の中でも視界はかなり効く。コースに沿って行けば一周して元いた東屋に戻るのも容易そうだ。
 しばらく小道を進む。すると、なんだか様子がおかしい。走っているのにその場所から先に一歩も進んでない気がする。等間隔に並ぶ電灯をいくつ過ぎても、ずっと同じ場所を走っている。走っても走っても景色が変わらないんだ。
 最初は暗くて感覚が変になっているんだと思った。でも立ち止まって後ろを振り返ったところで仰天した。なんと、さっき休憩した東屋からほんの数十メートルしか進んでない。本当ならもっと遠くに見えてもいい東屋が思ったより近くにある。やっぱり森に入ってすぐの場所で足止めされている。それ以上道を進むことができなくなっている。
 大急ぎで東屋に戻ろうとした。けど今度は、その東屋にたどり着くことができない。どんなに走っても、森から出ることができない。まるで蟻地獄に落ちた蟻のようだった。
 ほとんどパニックになって必死に走った。ついには道をそれて、木立ちを突っ切って公園に戻ろうとした。膝ほどの茂みをかき分けて、木の枝にジャージを引っかかれながら進むと、今度はすぐに公園に出た。見慣れた場所を目にして心の底からほっとした。
 ただどことなく公園の様子が変だ。さっきまであかあかと輝いていた電灯が消えている。そのくせ風景の輪郭が妙にはっきりして、モノクロの写真を見ているようだ。そこには現実感が消え失せていた。
 さっきみたいな混乱はおさまったものの、不安はまだ残っていた。いつもは海沿いを走って帰るけど、今は無性に街の明かりが見たかった。そこで公園までのコースを逆にたどって帰宅することにした。
 それはたぶん間違いだったんだろう。
 商店街にも明かりはなかった。明かりどころか、人も、普段なら道路を走っている車すらも、動くものはなにひとつなかった。死に絶えた静けさだけがあった。
 そこからの記憶がはっきりしないらしい。玄関のドアを開けてぱったり倒れていたのを家族が見つけた。
 それから数日間、兄は寝こんでしまった。