(3)

 M君の話が終わるまでは誰も邪魔しなかった。それは彼の語り口が真に迫っていたのもあるが、僕らのよく知る場所で怪異が起き、しかも語り手の身内が体験したという点が大きかった。どうにかすれば自分たちも怪異を体験できるかもしれない……そういった期待感が、若干飽きられていた怪談ごっこに新風を吹きこんだのだ。
 M君はあいかわらず曖昧に笑っていた。話し疲れたのかじっとうつむき、寄せられた質問にははぐらかすような答え方をした。
 その後はまたくだらない怪談が続き、やがて見回りの先生に追い立てられて、蜘蛛の子を散らすように学校から締め出されることとなった。まだ夕方と言うには早すぎる時間で、しかし僕らが学校を出て急激に湧き起こった雨雲は、あたりを薄暗く感じさせた。もうじき雨が降る。
 僕は友達と別れて学校近くの図書館に寄った。用事を済ませて図書館を出ると、冷房の効いた館内とは打って変わって、夏の雨間のぬるく湿った空気が肌にまとわりついた。急がないと降られそうだ。
 そんな時──これは本当に偶然だと思うのだけど──なにかそわそわして落ち着かない風のM君と会った。荷物がなかったから、一度家に帰ってまた外出したのだろう。むこうもこちらに気付いたようで、あの独特の曖昧な笑みを浮かべて走り寄ってきた。僕は図書館で用事を済ませて今から帰るのだと言うと、彼は途中まで一緒に行こうと誘った。べつに断る理由もないので並んで歩き出した。
 他愛のない会話が続いた。というか、僕が一方的に話題を変えていくだけで、M君はそれに相槌を打ちながら笑って聞いていた。そのうち話と話のあいだの沈黙が伸び、あの怪談の話題が出るのは避けられなかった。本当は、そんな話はしないほうがよかったのに。
 M君はその話をするのを嫌がった。お互いに会話が途切れたまま、武家通りに差しかかった。武家通りと言っても古い屋敷が並んでいるわけではなく、裏道にあたる閑静な通りで、少し離れた国道からかすかに車の走る音が聞こえてくる。低くたれこめた曇り空が、ひと気のない武家通りを普段よりもっと狭く息苦しく感じさせた。
 自動販売機の前を通ったときだ。M君が立ち止まった。僕は何事かと彼を振り返った。
 M君の顔が大きく歪んでいた。
 まるで見えない何かに怯えるように、前方の一点を見つめて。
 僕はその視線の先を追ってみた。けど、そこにはところどころがひび割れたアスファルトの路面があるのみで、おかしなことはなにひとつなかった。ふざけているのかとも思ったが、彼が「ひっ」と喉から息まじりの悲鳴を吐き出して地面に尻餅をついてからは、自分の関知しないなにかが起きたのだ、と悟った。
 状況を把握できずに焦っていると次の変化が起きた。
 M君が引きずられている。
 それは恐ろしく力の強い、見えない何者かによってだ。
 彼は必死に抗おうとし、体を支えるものをつかもうと地面に手を這わせた。だが無駄な抵抗だった。爪が割れ、腕が地面に擦られて赤い色が現れた。
 そうやってじたばたしているうちにぐるりと姿勢が変わり、それから起こったことを僕は死ぬまで忘れないだろう。忘れられないだろう。
 自動販売機から「かん、かん」と金属音が鳴り響いた。突如、取り出し口の蓋が上に持ち上げられ、そこにM君の足がはまった。違う、引きずりこまれたのだ。それからは一瞬だった。
 足から膝へ、膝から腰、胸、肩へと……かん、かん、かん。自動販売機がM君の体をたいらげてしまう光景は、ひどく非現実的で、なのに有無を言わせぬ硬さをともなっていた。金属音と、M君の体が潰れていく鈍い音。悲鳴は聞こえない。彼がそうやって消滅するのは当然だと言わんばかりにことは素早く運んだ。
 最後にM君は自動販売機の取り出し口から頭だけを出す姿になった。その顔は恐怖に歪んでいるどころか、いつものあの笑みを浮かべていた。やがてその頭も見えなくなり、「かしゃん」という軽い音が響いたあと、取り出し口の蓋が重力に従ってぱたりと落ちた。すべてが呆気なく終わった。
 僕は立ち尽くしていた。今ここで起きたことのあまりの凄惨さに対処できず、放心していた。やがて地面に黒い点がぽつぽつと現れ、雨が降り始めた。覚束ない足取りでふらふらとその場を離れた。


 M君は消えてしまった。
 というより、この世から彼の存在が追放されたと言うべきか。
 僕はあの出来事のあと、体調を崩して一週間ほど学校を休み、恐ろしさからM君のことを誰にも、家族にさえも言い出せないでいた。それでもやがては回復し、学校に行かざるを得なくなった。そして、愕然とした。
 クラスからM君の存在が消えていた。
 始めから彼など存在していなかったかのように、クラスメートも、担任も、怪談ごっこに参加していた友達でさえ不思議そうな顔で僕を見た。出席表に彼の名前はない。連絡網にも、イベントのときに撮影された写真にも、考えつくすべてのものから彼が消え去っていた。M君は自動販売機に食われたのではなく、元からいなかった。
 僕は混乱した。M君とは誰だったのか。そうだ、あの怪談を話せば誰かが思い出してくれるかもしれない、あの怪談さえ話せば……。
 けれどできなかった。話せなかった。なんとなくだけど、M君が消えてしまったのは怪談を、M君の兄が体験した怪異を、表に出してしまったからだと思うのだ。あのとき彼が自動販売機に食われて、僕が残ったのは、そのことを警告するためだったのかもしれない。話したらおまえもこうなるぞ、と闇の奥で声が聞こえた気がした。


 M君がこの世から消えて何年も経つ。僕はまだ誰にも話していない。だって、今でも時々、どんより曇った日には見るんだ。
 自動販売機から頭を出して笑っている、M君の姿を。