はじめに 二

 goo国語辞典の「日記」の記述。

(1)日々の出来事や感想などを一日ごとに日付を添えて、当日またはそれに近い時点で記した記録。古くは「御堂関白記」「玉葉」「明月記」などが著名だが、職掌上交替で書き継がれた「御湯殿上日記」などもある。日誌。にき。 →日記文学
(2)「日記帳」の略。 ――買う 年末に来年の日記帳を買う。[季]冬。《実朝の歌ちらと見ゆ―/山口青邨

 普通、日記といえば(1)の意味を指す。日々の出来事や感想などを書き記すのが日記……書き記すだけの出来事や感想がそんなにあるだろうか。あるのかもしれないが特に目立った事件もない単調な毎日を送っている自分を省みるととてもそうは思えない。精々読んだ本の感想を書くぐらいのものだ。
 つまらない日常を前提にどのような日記を書くのか。
 子供の頃、こんなことがあった。
 家族で遠出してデパートの恐竜展に行った。化石標本やパネルが薄暗い展示室に並び、親に手を引かれてどきどきしながら順路を歩いた。展示室を出たところにショップがあり、その横では人間の背の高さほどの恐竜の模型に乗って写真を撮るというサービスをやっていた。もちろん親にねだって恐竜の背に乗せてもらい、その姿をポラロイドに収めた。
 後日、幼稚園でのこと。写真を友達に見せびらかし「本物の恐竜に乗った」と吹聴してまわった。友達はそれが嘘だとわかっているので取り合おうとしなかったけれど、自分はむきになって「本当のことだ」と言い張った。それでも信じてもらえないものだから結局は「"デパートの"本物の恐竜だ」と苦しいことを言った。あの時の悔しさは今でも鮮明に覚えている。
 今になって考えてみるとなるほど幼稚な嘘ではあるけども、あの時模型の恐竜の背に乗って「恐竜に乗った」と感動したこと自体はまぎれもなく本当だった。人から見ればたいしたものではないが自分からすればそれは本当に本物の恐竜に乗ったほどの感動だった。その感動を頭から否定されたのが悔しくてならなかった。
 この悔しさはいまだにしこりを残している。ひるがえってどのような日記を書くかといえば、嘘をついてでも自分の心情を、感じ取ったことを書きたいと思う。嘘という言葉がだめならフィクションでも絵空事でもなんでもいい。そしてその嘘によって現実が誇張され、一が十に、少しでも面白くなるなら願ったり叶ったりだ。さいわいにも僕ごときが嘘をついてもそんなにたいした影響はないだろうし、高じれば創作にも繋がりそうだ。
 本当のことを書くためなら嘘をつくのも厭わない。
 そういう風にして書いていこう。