カーブミラーの魔物

 こつこつと誰かが指で叩くような音に窓を見ると、それはたしかに親指ほどの大きさの蛾が、部屋の明かりに誘われて何度も何度も見えない壁に体をぶつけていた。ガラスにぶつかるごとにこまかな燐粉が散る。これは昆虫の「走光性」という習性に基づくもので、本来蛾は月や星の明るさを指標に飛ぶのだが、人間の作り出した人工の明かりに惑わされた結果、このような無謀な突進を試みることになったらしい。生物の体にプログラミングされた習性とはいえもう少し融通がきかないものかと思う。
 融通のきかない習性といえば人間を省みて多々心当たりはあるのだけど、そんな習性を持つのはなにも目に見える存在だけではないようだ。沖縄では町をさまよう魔物はまっすぐにしか進むことができないので、T字路や三叉路など道が道にぶつかる地点では突き当たりに「石敢當」と呼ばれる石碑を設置し、これを魔除けとする。石敢當に当たった魔物は砕け散るという。
 五月に入ってから夜中のジョギングを再開している。そのコースの途中、道と道がぶつかるT字路にそれはある。といっても沖縄式の石敢當ではない。団地に進入する上り坂の終点、つまり入り口を突き当たったところで侵入者を睥睨するそれは、何の変哲もないカーブミラーである。
 深夜二時頃、軽いトレーニングとストレッチを済ませてジャージに着替えると、深呼吸して肺に夜気を通し、さらに飛び跳ねたり腱を伸ばしたりして身体をほぐす。片膝に体重をかけてもう一方の脚をうしろに引き、引いた脚のアキレス腱に力をこめ、とん、と軽く地面を蹴ってスタートする。最初は膝の調子を確かめて走る。それから、とっとっとっ、と一定のペースで風を切る。そうやってしばらく走っていると、走るというよりはふわふわと漂っている感じで、身体の境界から自分の存在が暗闇に溶け出していくように感じる。五月のさわやかな空気が全身を包む。
 そのまま夢とも現実ともつかない心持ちで走っていった先に、地面にスプーンをさかさまに挿したみたいな形のオレンジ色のカーブミラーが見えてくる。そこで鏡を覗く。
 鏡の中には坂の下の電灯と自販機の明かりと周囲の家がぐにゃりと丸く引き伸ばされて写っている。当然自分の姿もいびつに反射していて、歪んだ像は夢の中を走る姿をたしかに正確な形で写しているとも思う。深夜二時の夢の鏡像。それをさっと一瞥してジョギングを続ける。
 カーブミラーは石敢當のように魔物を退けるのだろうか。砕くとまではいかないにしても鏡面によって跳ね返すぐらいはできるのかもしれない。でも、そうではなくて、魔物を鏡の中に封じるとしたらどうか。
 古来から鏡は魔力を持つものとして重宝されてきた。それはただ光を跳ね返して姿を写すだけにとどまらず、鏡のむこうにもうひとつの世界を顕わしめ、存在を封じることが求められてのことだろう。手で触れられるもうひとつの世界がむこう側に広がっていてもおかしくないと思わせる不思議な魅力が、鏡にはある。鏡と鏡を向かい合わせて永遠の回廊に光を迷わせる例の装置を引き合いに出すまでもなく、それは石敢當のように魔物を砕くことはできずとも、騙して別の世界へと迷いこませることはできる。
 騙された魔物は鏡のむこうからこちらを覗き見る。
 カーブミラーを見る。するとこつこつと指で叩く音が、骨ばった指がこちらの世界にむけてノックをくりかえしている。鏡には鏡を見る者と同じ姿の、けれども虚ろに引き伸ばされた顔が映る。引き伸ばされた口元は鏡の丸みに沿って奇妙に笑っている。それは夢と現実が合流する深夜の暗闇に、境界を越えてふわふわと溶け出している。