星と雨の音楽

「星と星との間に視線でいくら分け入ってもまだまだ小さな暗い星がある」*1とメモ帳に書き付けて、それまで読んでいた本を閉じた。小石が飛び跳ねているような鈍いうずきを眉間の奥に感じる。
 朝から家の裏でやっていた工事の音はやみ、思いがけずまたいつもの静けさが戻ってきた。午後二時。曇天の空の下、曖昧な光が地上に満ちていた。ぼんやりと見るともなしに窓の外を眺めながら机を離れ、うつ伏せにベッドに体を投げ出す。枕に顔を埋めたまま、何か静かな音楽をやっていればと思い、リモコンを操作してラジオの電源を入れる。電波の奥、遠い空の彼方で誰かが話している。
 簡単な曲紹介とともにクキクキとオルゴールの音に似たギター曲が始まった。ポンセ『三つのメキシコ民謡』、ペペ・ロメロの演奏。メキシコ民謡といっても音楽に疎い自分にはそれがどんな趣向なのかよくわからないけれど、どこか海辺の白い街並みを思わせる曲でなかなかよかった。これは次も期待できるぞと耳をそばだててみれば今度はレブエルタス『マヤ族の夜』が……しかしこれはずむずむと密林の奥で松明に照らされて行われる異教の祭儀じみた重苦しい曲で、どうにも聴く気になれずラジオを消してしまった。起き上がってPCの前に移動する。
 検索窓に「ポンセ」と入力。作曲家、マヌエル・ポンセ──「ポンセはこんにち、ヤッシャ・ハイフェッツの編曲で有名になった歌曲《小さな星(エストレリータ) Estrellita》の作者として有名である」とのこと。こうなると俄然その曲が聴きたくなってくる。検索窓に Estrellita と入力したところ、いくつかのクラシック音楽をまとめたBGM動画にそのタイトルを見つけた。一も二もなく聴いてみる……が今度はポンセそっちのけで冒頭のラフマニノフ『ヴォカリーズ』のメランコリックな曲調に惹かれた。なるほど「曇りや雨など寒い日に、こころに染みる」選曲というだけあって、この曲には雨音が似合う。さらに検索を駆使して数刻、ワイルド編曲の『ヴォカリーズ』をリピート再生にし、ただ雨音を流しているだけの動画と同時に再生してみる。
 しとしとと降る雨のむこうで誰かが鍵盤を叩いている。ときおり、遠くで小さく雷の音が響く。
 ふと思い出して書類の中から未開封の封筒を取り出し、中身を傷つけないよう注意して封を切る。封筒の色をもっと煮詰めたような色合いの小冊子、詩誌『雲雀料理』の第六号。表紙にはまるで冊子の奥の暗闇へと誘うかのような階段が描かれている。しばらく詩行を追って、この人は今回揮わなかったな、とか、新機軸を打ち出してきたな、などと勝手なことを考えつつ、別世界といえるほど遠い地でたまたまそこに集った人々が自分の詩を持ち寄り一冊の本が出来上がっていく様を思った。
 雨のむこうで何度目かのヴォカリーズが終わる。のろのろとPCを消す。
 窓の外、曇り空からは本物の小糠雨が降りはじめていた。地上へとおずおずと落ちる雨のむこうで、まだ誰かがピアノを弾いている気がする。「星と星との間に視線でいくら分け入ってもまだまだ小さな暗い星がある」──雨と雨との間にもそんな粒子があるのかもしれない。星が連なって星座をなすように、雨音の中にも一曲の音楽がありはしないかと、聴こえないヴォカリーズにじっと耳を傾けた。
 

*1:池澤夏樹『星に降る雪/修道院