Twitterより抜粋

・昔書いた詩に「打ち捨てられた井戸が生える」という記述を見つけた。9年前。意識してないだけであまり変わってないのかもな。
・その詩のことは完全に若書きなので覚えてなかったんだけど、天沢退二郎なんかは若書きの頃の作品モチーフにかなり自覚的で、後年まで一貫してひとつの流れを書いている。賢治研究者としての、批評家としての自作への意識がある。
・僕もそういうの検討してみようかと思ったら作品が残ってないんだよな。Internet Archiveくらいにしかない。まあ自分の過去作を省みる勇気もないが。
天沢退二郎の自作への批評意識は、ある種の詩の絶対性を担保にしている。平たく言えば「書いたものは後世に残る」という自信。ひるがえって自分の場合を考えてみると、詩の一回性というか、刹那的に消えるものが世界に対して絶対的に正しい、という意識がある。ゆえに作品が残ってない。
・この自作への意識を世代というものに引きつけることもできるがそれはお門違いだろう。ただ自信がないだけだな。
・そういうわけで僕もある時期から積極的に残すようにしたし(主にダイアリーに)、書くものもある程度の一貫性を持ってきたように思う。できれば過去作も掬い出してやりたいが。