9月第1週
インドの人々はふつう自分の土地から出たがらない性質だからで、それもこれも土星と呼ばれる遊星の下に住んでいるためである。
別府が温泉資源を基盤に成立し、その関連産業によって都市的規模に拡大した町である以上、地下を流れる温泉脈の挙動はきわめて重要である。温泉の状況ひとつで、その物理的・構造的上部に形成されたものである社会や空間の様相は一変しうるからである。
『青白い炎』第一篇(その5)
さらに、そこには音の壁がある。秋になり
無数のコオロギに築きあげられた夜の壁が。
立ち止まらずにはいられない! 丘の中腹で
わたしは足を止め、虫たちの熱狂にうっとりと耳を傾けた。
あれはサットン博士の家の灯り。あれは大熊座だ。
千年前、五分間は
四〇オンスの細かな砂に等しかった。
ああ、星々を見つめよ。果てしない昨日と
果てしない明日に目を向けよ。はるか頭上に
星々は巨大な翼のごとく迫り、やがておまえは死ぬのだ。
思うに、ありふれた俗物のほうがより幸福だろう。
彼が天の川を見るのは、ただ立小便をしているときだけなのだから。
昔も今も、わたしは大枝に鞭打たれたり
切り株につまずいたりと、危険を冒して歩いてきた。
わたしは喘息持ちで、びっこででぶっちょで
ボールを弾ませたことも、バットを振ったこともなかった。
わたしは影だった、窓ガラスに映じた見せかけの遠さに
殺された連雀の影だった。
わたしは頭脳と五感(そのうちのひとつはユニークな)を持ち合わせていたが
他の点ではからっきしだめだった。
夢の中では他の男の子たちと遊んだが
本当のところは友達を妬んでなどいなかったのだ――おそらく
濡れた砂の上にそっけなくも巧みに残された
連珠形の驚くべきもの
自転車のタイヤ跡を除いては。
8月第4週
「梟山伏」に見られる徹底的なナンセンス、社会や常識をまったく相手にしない底抜けのナンセンスの恐ろしさについては覚えておきたい。
『青白い炎』第一篇(その4)
わたしは親愛なる叔母のモードに育てられた。
風変わりな叔母は詩人であるとともに画家であり
グロテスクな成長と滅びのイメージが絡み合った
写実的な事物を好んでいた。
隣室の赤子の泣き声を聞きながら彼女が暮らした部屋は
そのまま手を加えずにおかれた。
そこに残るちょっとしたものが持ち主の人となりを表している。
珊瑚を含んだ凸レンズ製のペーパーウェイト
索引を開いたままの詩集(ムーン、ムーンライズ、ムーア人、モラル)
哀愁漂うギター、人の頭蓋骨
そして地方紙『スター』からの珍しい切り抜き
「レッドソックス、チャップマンのホームランによって
ヤンキースを5対4で破る」がドアに画鋲で留めてある。
わたしの神々は若くして死んだ。神を崇めることなど
下劣で、その根拠もあやふやに思えたのだ。
自由な人に神はいらない。だが、わたしは自由だったのか?
自然が我が身に分かちがたく結びついているのを、なんと豊かに感じていただろう。
わたしの子供っぽい舌はあの素晴らしいペーストの
なかば魚の、なかば蜂蜜の味を、なんと愛していたことだろう!
ごく幼い頃、わたしの絵本は
彩色した羊皮紙のように、わたしたちが住まう鳥籠を飾った。
藤色をした月の暈、血蜜柑色の太陽
アイリスの花輪、それとあの稀にしか起こらない
イリデュール現象――美しくもまた不思議なことに
山脈の澄んだ上空に
楕円形をしたオパール色の雲がひとつ浮かび
遠くの谷間にかかっていた雷雨の虹を
反射する――
そういったたいへん芸術的なものに囲まれて暮らしたのだ。